あの日、あのとき、あの場所で

15年ほど前の秋頃、西南学院大学の文化祭の帰り道に英会話スクールの勧誘を受けていなかったら、今の僕はいなかっただろう。通っている大学でもなく、急に誘われた突発的な出来事だった。

あの勧誘がなければ、東京に出てきてないだろうし、独立もしていないだろうし、WEBメディアの運営なんてもっとしてないだろうし、文章を書くという仕事は絶対してなかったと思う。文章は好きで書いてたかもしれないけれど。

振り返ると、高い英語教材買わされたなあとか、ローンの返済長かったなあとか、ダークな思い出はあるけれど、そこで知り合った先輩に勧められた会社が新卒入社した会社だし、その会社でお世話になった先輩が独立後の人とのつながりの原点だと思うと、なかなか面白い。

当時、英会話スクールの全国の学生を集めたイベントを仕切ったのだけど、そこで仲良くなった京都の友達のツレが、今、拠点にしているシェアオフィスの隣のブースで働いているというのは、奇跡的な縁だと思う。もともと、大学時代は福岡に住んでたから、京都に友達ができるだけでも奇跡なんだけど。

「ちょっとお時間いいですか?」の営業トークが、僕の人生を面白くしてくれた。

選択肢なんて、その瞬間は「絶対にこれ」と思って選んでる。でも、良かった選択も後悔が残る選択も、生きていればそれぞれに一定量貯まってくる。

直観的に「良かった選択<後悔が残る選択」ならば、たぶん今はしんどいだろうし、その不等号を逆にできた方が人生楽しそうだって分かってる。だから、選択に迷うし、ビビるし、間違いたくなくなって、慎重に選ぶようになる。

そんな中で選択を失敗すると、ダメージがでかい。

選択の責任を自分から手放したい、誰かに担ってほしい。それは人間の性であって、今時のイノベーションのコンセプトなのかもしれない。わからなくもない。

でも、あまのじゃくな僕は、例えばレコメンド機能が嫌い。AIに探してもらうより、自分で探す。上手くいかなかった選択のほうが、自分の判断軸を作ってくれる、可能性を広げてくれると信じてる。

タイトルで買ったけどグッとこなかった本、ジャケ買いしたけど合わなかったCD、店員に勧められるままに買ったけど1度着ただけの服。一瞬違う世界を体験して、あ、違うと気づくことができたから、今の僕の価値観がある。

いつも誰かに選んでもらうって、失敗はしないけれど、自分が生きている実感が湧くかというとわからない。自分なりの選択、もっというと決断って、あ、生きてる!って感じがする。

もし『逆鱗』のボーカルの五郎が、一発録りのレコーディングの最中に「これは誰かに届くのかなあ」と言い始めなかったら。

そんな無茶苦茶なことをやった五郎の選択が、最後は地球を救うことにつながっていくというのは、本当に面白い話。フィッシュストーリー。

思えば、伊坂幸太郎ファンになったのも『オーデュボンの祈り』の表紙を見て、オーデュボンってなに?からちょっと立ち読みしてのめり込んだことが最初。

やっぱり、選択権は自分に欲しい。

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