いつから、目の前のことに集中できなくなったんだろう。
「楽しいから」じゃ足りなくなって、「これをやって何になる?」と考えるくせがついてしまった。無駄を省いていった先にあったのは、味気ない生活だった。飾り気のない服。音楽のない生活。彩りのない食事。
そんなときに、一冊の本に出会った。
“なぜだか昔から、余分なものが好きです。
それはたとえば誰かのことを知りたいと思ったら、その人の名前とか年齢とか職業とかではなく、その人が朝なにを食べるのか、とか、どこの歯みがきを使っているのか、とか、子供のころ理科と社会どっちが得意だったのか、とか、喫茶店で紅茶を注文することとコーヒーを注文することとどちらが多いのか、とか、そんなことにばかり興味を持ってしまうということです。“『ホリーガーデン』江國香織 p.320 新潮文庫 1998年
このあとがきの通りの小説だった。
5年前に別れた恋人を忘れられない果歩を見て苛立つ静枝と、静枝の不倫に対して釈然としない果歩の20代後半の二人の物語。
もっとも、この小説の場合、あらすじなんて意味がない。あらすじにすると、二人の日常の細かい描写はかき消されてしまう。
ページをめくっていくと、段々自分の中で信じていたことがぐにゃりと歪んでいくように感じた。そこにあるのは「正しい」とされていることが、通用しない世界だった。
たとえば、仕事中の私用電話や私語を注意する上司のあだ名は「象足」だし、不倫している静枝に「むなしくない?」と質問をする祥太郎は、「善良」で「的外れ」と言われてしまう。この小説を読んでいると、常識はつまらないのかもしれない、という気になってくる。
読み終わったあとには、いくつかのシーンや、イメージがフワフワと残った。
学生のころは体育をサボってばかりいたのに、今では水泳を欠かせない静枝。素敵なバラ模様のティーカップを持っているのに棚の奥にしまいこんで、カフェオレボウルになみなみと紅茶を注いで飲む果歩。なんてことない、二人のくせや習慣や雰囲気。
でも、小説に限らず、思い出はそういうものなのかもしれない。
人の記憶は、江國香織さんの言うところの「余分なもの」に宿っている。その人の好きな音楽とか、一緒に行った場所とか、苦手な食べ物とかをきっかけに、誰かのことを思い出したりするから。