私は大学4年生になろうというタイミングで「退学したい」と親に打ち明けた時がありました。
その頃の私は体調が悪くて大学の授業にもほとんど出られず、その後の将来について不安しかなく、とにかく何をどうすればいいのか全く分かりませんでした。何より、「ストレートで大学を卒業して就職する」という「普通、みんなが進む道」から外れることが怖くてしょうがなかったのです。
結果的には、大学と大学院で過ごす間に計2回留年しました。
いずれもポジティブな理由(専攻分野を変える、海外研修に行くなど)で留年したと説明することが多いですが、実際は退学するより留年してでも卒業する方がいいだろうとか、就職活動がうまくいかなかったなどのポジティブでない理由もいくつかありました。
しかしながら、この大いなる「よりみち」は、私にとって「ありのままの自分」を見つける手掛かりになったと思っています。他人から見たら脇道に逸れたように見えたかもしれない。でも、私にとっては必要な道のりでした。
なぜなら、まず何より、「みんなが進む道」から外れても、人生はそれなりに続いていくことがわかったこと。そして、その外れた先で新たに出会った面白い人達や、改めて向き合う価値観もたくさんあって、それらの経験がその後の自分の人生を豊かにしてくれたと思っているからです。
自分の将来についてどうしたいかについて、はっきりした答えが出たわけではないけれど、この「よりみち」やそこで得た人生の「余白」のようなものによって、私は「みんなと同じ道」の上を歩んでいた時とは違う角度から、自分の幸せ、「ありのままの自分」について考えることができるようになったと思います。
もう一点、「ありのままの私」でいることについて考えたいことがあります。
「ありのまま」でいることは、「わがまま」であることなのでしょうか。
「ありのまま」は自然体で、あるべき自分でいられるような状態であるような表現ですが、一方で「わがまま」というと、自分勝手で周りのことを考えてないようなイメージがあります。
私はよりみちするまでは、「ありのまま」でいたいけど、「わがまま」にはなりたくないと思っていました。
そういう意味では、当時はいつも何かを演じていたのかもしれない。
周りの目を、どう思われるかを気にし続ける。結果、どんな自分でいるべきなのか、どんな自分でいたいのかわからなくなってしまう。
周りの意見には大体同調してしまう。結果、自分の意見がわからなくなる。
その繰り返しで、これらは決して快適なことではなく、嘘をついてるみたいで罪悪感すら感じました。でも、この悪循環からの抜け道もよくわかりませんでした。
そんな中で半ば強制的によりみちしたことによって、私は私を見つめ直すことができました。
今も完全に演じてないかというときっと多少は演じてるし、同調もしていると思います。
それでも、自分にとって心地よいと思えるもの、そうでないものが以前よりはっきり見えてくるようになってきました。
些細なことで良いんです。
紺色が似合うねと言われるけど、本当はオレンジや黄色の服が着たい。
しっかりしてるねと言われるけど、本当は結構ずぼらなところも知っておいて欲しい。
友達多いよねと言われるけど、本当はいつも孤独感に負けそうになるのだと声を大にして言いたくなることもある。
前より、わがままになったのかもしれない。でも、その方がより過ごしやすい、ありのままの自分なのであれば、そうした自分のあり方は無視しない方がいいと思います。
いつどこでどんな時代を生きていても、ありのままの自分を見つけられるのは、他でもない自分自身だけなのだから。
「私たちが幸せになるために、生存の問題と同じほど大切なのは、
好きなだけ寄り道のできる自由と、
お互いの寄り道を許容する寛大な目。」
(「私は私のままで生きることにした」p236より)