「喪失感」は、誰か大切な人と別れた直後にやってくるものだと思っていた。
恋人と別れたとき、家族を亡くしたとき、友人が遠くへ行ってしまったとき。その直後に別れを惜しみ、ひとりになったときにまた余韻に浸る。思い出の品を眺め、懐かしみ、場合にはそんな湿っぽい自分を叱咤激励して物を捨てたり、整理し直したりする。
決められた儀式や工程を経て、心の中で別れを告げる。この工程は、喪の仕事とも言われている。
ただ、心の中で別れを告げるのはそう簡単で分かりやすいものでもない。
実際の喪の仕事は「別れ」の前から着々と始まっている。一緒にいるうちから相手に幻滅をして心理的な距離ができていたり、別れる前から別の依存先を探していたりと、少しずつ心の準備をしていたりもする。
別れた後も、すぐに悲しみがやって来るとは限らない。直後は別れがピンと来なかったり、現実味が薄れて感じたり、目の前の問題の対応に追われているうちに時間が過ぎてしまったりする。別れの衝撃が大きいほど、涙を流せなかったりするものだ。
寄せては返す波のように、喪失感はやって来る。最初は大きな波が襲ってきて、嘆くことで精いっぱいになる。それは、たしかに大仕事なのだ。涙を流し、思い出を語り、ときに置いていかれたことへの恨みつらみや、一緒にいるときは関係性を維持するために押し込めていた怒りが出てくることもある。
そして、激しい波が去る。ようやく一段落した、なんとか乗り切れたように感じて、また穏やかで退屈な日常へと戻っていく。
それなのに、また忘れたころに波はやって来る。後悔や懺悔をこぼし、あり得ない再会を望む。かつては当たり前にあった景色がやたらと美化されて、もう二度と手に入らない夢のように感じられる。
少し時間が経つと、冷静になった自分が過去にも耐えがたい点があったことを教えてくれる。そう、それは理想郷などではなかった。よかった面だけに光をあてるのはフェアじゃない。
衝撃は人を盲目にする。普段ではあり得ないような歪んだ見方をしてしまう。どうして、片方しか見ることができなくなってしまうのだろう。たった一つのできごとを大きく感じてしまったり、たくさんあったことを都合よく忘れてしまったりする。
寄せては返す、波のように。何度も揺り戻しが来て、また、去っていく。行きつ戻りつしながら、少しずつ波の大きさが小さくなっていき、やがて穏やかないつもの海に戻る。嵐のときのような荒れ狂う高波は長続きしない。
引いていく潮の流れを見つめながら、過ぎ去った時を懐かしく想う。