子どもの頃に持っていた宝箱

読書会を主催していると、子どもの頃に持っていた宝箱を思い出す。

もともとディズニーのクッキー入れだった缶に自分の大事なものだけを詰め込んでいた。あまりにも長く使いすぎたので、蓋が歪んでしまい閉まらなくなっていたくらいだ。

桜貝、旅行先で拾った白くて丸い石、お土産でもらった星の砂、におい玉、キラキラのおもちゃのアクセサリー、リボンでできたバラ…。

部屋の中で一人きりになったときに、何度も、何度も出し入れをしては眺めていた。他の人に見せびらかしたいような、誰にも見せたくないようなくすぐったい気持ちだった。

あの宝箱をいつ手放してしまったのかは、思い出せない。大人になっていく過程で「もう、蓋も壊れているし、いいや。」と捨ててしまったのかもしれない。入れ物が無くなったことで、中身も散り散りになったのだろうか。

それとも「この年で宝箱を持っているなんて、幼くて恥ずかしい。」と他人の目を気にして、処分をしたのだろうか。わたしはこうやって処分をしたものがいくつかある。後者だとしたら、悲しい。

“ああいう人は、私が大事にしているちっちゃいきらきらしたものを、みんな地面ほうに持っていって、だめにしちゃうんだもん。取るに足らないことにしちゃう。それでね、いつか私は絶対そういうのに負けてしまうようになっているの。この世の中ではいつだってそうなの。でも、そうでないことを探して、私ははじっこで生きていくしかないのよ。もう、そう決めたからいいの。”p.110 『High and dry(はつ恋)』よしもとばなな

読書会ではみんな「自分にとって大切な本」を紹介してくれる。つらい時期に出会って慰められた本や、迷っていたときに勇気をもらえた本。生き方に影響を与えるほどの出会いは、一生のうちに何度もやって来ない。

本の話をしているうちに、徐々にその人自身の話になっていく瞬間がある。

「あ、宝箱の中を開いて見せてくれた。」と感じる。

普段は隠して生活をしているのであろう、心の奥の柔らかい部分に届いた言葉や写真や絵。きっと、本が人生と交差した瞬間なのだ。自分の中にあっても、ひとりでは見つけられなかった部分が本によって明らかになっていく。

「この人は、ちっちゃなきらきらしたものを取るに足らないことにせずに、その世界を守り続けてきたんだ。」とまぶしく感じる。

子どもの頃から、心の中に持ち続けてきた宝箱。

記事をシェア

この記事を書いた人